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あ か高野龍神スカイライン 古座川熊野川線 さ た な那智山スカイライン は ま や ら わ あ か 高野龍神スカイライン 古座川熊野川線 さ た な 那智山スカイライン は ま や ら わ
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ゆーとぴあまで【登録タグ ゆ よしのん フラグP 曲 鏡音リン】 作詞:よしのん 作曲:よしのん 編曲:フラグP 唄:鏡音リン 歌詞 優しい音が聴こえる 光の中であたし 生まれるの も一度 ずっと傍にいたのに 気づけずにいたんだね あなたの眼差しに 守られていたこと あの日 あなたが差し伸べて あたしが受け止めた 繋いだこの手は 離さない いつかふたりで歩く道 今は遠いけれど 暖かい場所に辿り着くように 「遠く離れていても 逢えなくても 心は隣にいる」 なんて キレイ事はいらない 欲しいのはひとつだけ 抱きしめた温もり あなたを感じたい もしも 誰かを傷つけて 自分も傷ついて それでもこの手は離さない いつか ふたりで生きる為生まれてきたんだと 信じていようと 約束した あの日。 朝の光も 夜の温もりも あなたがいなければ 何の意味もない ただの事象。 罪に塗れても この世の果てでも ふたり 辿り着く先が ユートピア あの日 あなたが差し伸べて あたしが受け止めた 繋いだこの手は 離さない はるか海の向こうの空 今は遠いけれど 暖かい場所に辿り着くように・・・ コメント 名前 コメント
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http //www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2010061802000084.html 映画『ザ・コーヴ』舞台 和歌山・太地町を歩く 2010年6月18日 朝刊 「ザ・コーヴ」が撮影された現場周辺では、海水浴場の整備工事が行われていた。右奥に行くと『入り江』がある=和歌山県太地町で 紀伊半島の南端近くに位置する和歌山県太地町。「古式捕鯨発祥の地」をうたう人口約三千五百人の小さな町がドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」の舞台だ。映画は今、上映中止騒動の渦中にあるが、太地町の人たちはどう感じているのだろうか。現地を歩いてみた。 (石原真樹) 羽田空港から南紀白浜空港まで空路一時間。バスでJR白浜駅に向かい、特急と普通列車を乗り継いで、さらに二時間。雨の太地駅でクジラの壁画が出迎えてくれた。 イルカやクジラを獲り、食べてきた長い歴史を持つ太地町。町のシンボルでもある「町立くじらの博物館」のすぐそば、湾から奥まった場所に、劇中、イルカの血で赤く染まった“現場”の入り江はある。しかし、そこにつながる山道には柵が設けられ、英語と日本語で「立ち入り禁止」と書いた張り紙が。勝手に入るわけにもいかず、近くの高台からのぞけるかと試みたが、木が生い茂って見えなかった。 「くじらの博物館」には古式捕鯨のジオラマや漁で使った銛(もり)、銃が展示されていた。平日のためか客はまばら。ショーが行われているプールでは、イルカたちが元気にジャンプを披露していた。売店にはクジラやイルカのぬいぐるみ、クジラ肉の大和煮の缶詰など。近くの土産物店にも寄ったが、イルカ漁がシーズンオフのためかイルカ関係の食品は置いていなかった。「イルカやクジラは昔からの生活の糧。(騒動で)お客さんは『大変やねえ』と言ってくれる」と店員の女性。 宿泊した民宿のおかみさんが、ふだんのメニューにはないイルカ料理を振る舞ってくれた。 「映画のことがあってから『イルカを食べたい、食べておばちゃんを励ましたい』って、お客さんが。漁期(9~2月末)やないからあまりないんやけど、乾物屋で冷凍を一キロ見つけたから。あんたにも分けてあげる」 イルカの刺し身はコリコリした食感で、並んで出されたミンククジラの刺し身よりも脂がこってり。おかみさんが「私も食べたいから」と作ってくれたタマネギ、砂糖、しょうゆで煮つめたすき焼き風は、煮くずれもせず、おいしかった。 亡夫がイルカやクジラを捕る漁師だったという。玄関近くには、入り江に追い込まれたイルカの写真が大きく引き伸ばされて飾られていた。「きれいやろ」と誇らしげなおかみさん。 食後、入り江近くの国民宿舎で、三軒一高町長と遭遇した。「映画のことは(町長の立場で)何も答えようない。こないだも何やらの記者が来たから『もっと勉強せえ』と追い返してやったわ」。町長は「ハハハ」と快活に笑い、立ち去った。 ◇ 梅雨の晴れ間がのぞいた翌朝、漁港に向かった。定置網漁を担うのはクジラやイルカ漁とは別の漁師たち。サバやアジのほか、四キロもあるサバ科の魚・ヤイト(スマ)が五十匹も揚がり、「普段は一匹、二匹なのに」とみんな笑顔。 映画の中でルイ・シホヨス監督らは、イルカやクジラの水銀濃度が高いと主張。国立水俣病総合研究センターの調査で、町民の毛髪中の水銀濃度が国内のほかの地域より高かったとの結果も五月に出ている。 「説明会もあったが、百五十人くらいしか集まらなかった」と漁業組合の男性。調査で健康被害は出ていないとされたことを挙げ、「捕鯨が始まった四百年前から食べてたのに誰も病気していないことがわかって、『わしらが安全を証明した』と安心してる。水銀とも海とも共存しとる」ときっぱり語った。 漁港の目の前には漁協のスーパー。太地産クジラの加工品はあったが、ここにもイルカは見当たらなかった。 かつて太平洋を回遊するイルカやクジラの群れを見つけ、船に知らせたという岬に足を運ぶと、散歩中の男性から往時を聞くことができた。 「こっから群れを追い込むのが見えて、そりゃ迫力あったわ。イルカは、東京の人らは知らんかもしれんけど、食べるとうまいんやわ」 報道ファイル
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【TOP】【←prev】【FAMILY COMPUTER】【next→】 ポートピア連続殺人事件 タイトル ポートピア連続殺人事件 機種 ファミリーコンピュータ 型番 EFC-PR ジャンル アドベンチャー 発売元 エニックス 発売日 1985-11-29 価格 5500円 堀井ミステリー三部作 関連 ポートピア連続殺人事件 北海道連鎖殺人オホーツクに消ゆ 駿河屋で購入 ファミコン(箱説あり) / ファミコン(箱説なし)
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目次 1.愛を考える 2.理想的男女愛 3.男女愛の発展 4.人への愛と社会への愛 5.愛とユートピア (1988年4月17日の霊示) 1.愛を考える またね、私の苦手(にがて)な領域で、愛という領域ですね、これについて話をしたいと思ってます。 まあ愛とはね、本当に難しいものです。なかなかね、何千年、何万年、あるいは何億年勉強しても、愛の真髄というのはわからないですね。本当にね、愛というのは、それだけ深みがありますね。 みなさんは小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代、いろんな勉強されて、もちろん素晴らしい成績を修めてこられた方々ばかりだと信じていますけれども、そうした方々でも、ひとつの学問やってたら飽きがくるでしょう。やがて嫌になったりするでしょう。まあなかには学者さんみたいに、一生研究ばっかりしている人もいるけれども、たいていの人は学問ばっかりしたら嫌になってきますね。ところが、この愛ということはね、勉強しても、勉強しても飽きが来ないんです。 神様っていうのは、非常に巧妙にいろんなことを考えているもんだなあと、私はほんとにつくづくと思いますが、この愛、まさしくその通りですね。考えても、考えても、尽きることがない。愛とは何かと言ってもね、これがなかなかわからない。もちろんイエス様みたいな愛の大家もいるけれども、愛の大家をもってしてもね、人間の数だけの愛のあり方があるから、それをいちいち指導することは非常に難しい。そうではないかと私は思ってます。 ひとつの教材ですね。文部省認定じゃありませんが、神様認定の教科書があって、そしてその教科書には、開けてみるとね、扉に一言、「愛について学べ」と書いてあるんです。「愛について学べ」と書いてある。そしてその愛について学ぶ、どういうふうに学ぶかということは、なんにも書いていないんですね、なんも書いていない。ただ一言「愛について学べ」と書いてある。これについて、人類は随分長い間苦しんでもきたり、あるいは楽しんでもきたり、悩んでもきたり、喜んでもきたり、いろんなことをしてきたわけなんです。 ま、愛とは何かがわかれば、だいたいまあ地上も卒業ですよ。これがね、本当にわかったら、だいたい卒業です。愛のね、テーマはいろいろありますが、人間の間(あいだ)の愛、人間と動物たちとの愛、あるいは社会愛、人類愛、あるいは高級霊への愛、神への愛、そして神の愛としての慈悲、いろんなものがありますが、こうしたことを全部学び尽くしたら、ほんとに卒業だと思います。一度、この世界観というものを愛という観点からね、もう一度とらえ直し、再構成し直してみるとね、面白いところがいろいろ見えてくると思います。 戦争なんてのも非常に馬鹿馬鹿しいと思うけれども、あれもひとつの愛が、まだ発展中の過程なんですね。自分の村、あるいは国でも何でもいいですが、仲間を守るという愛と、相手は相手で自分の仲間を守りたいという愛、この愛と愛とがぶつかり合っているのですね。アメリカはアメリカで自分たちを守ろうとする愛があり、ソ連はソ連で自分たちを守ろうとする愛がある。この愛と愛とがぶつかり合うとどうなるかって言うと戦争になってくるんですね。 この原因はどこにあるかと言うと、愛についての、まだ発展が足りない、認識が足りない。こういうことですね。愛が小さな範囲のなかで、グルグルと回っているわけです。したがってね、こうした愛は、本格的に神の愛から見れば、まだ小さい小さい愛だと言うことができるのです。 さて、この愛を考える際に大事なポイントというかね、それについて僕はちょっと言っておきたいと思うんだな。それは、結局、こういうことなんだよな。人間の本質的な部分に非常に関係があるっていうことなんです。 たとえば、私だって一応、高級霊ということになっていますし、光の大指導霊の一人だというふうに言われているわけだけれども、じゃあ私は、たとえば読者のみなさんが「高橋先生大好きです」と言ったら、嬉しくないかっていったら嬉しいね、やっぱり嬉しい。「高橋先生の本読んでためになりました」と言われたら、やっぱり嬉しい。「高橋先生の本読んでがっかりしました」って言われたら悲しい。「高橋先生の本読んでますます尊敬しました」と言ったら嬉しい。「高橋先生の本読んでつまらん男だと思いました」って言われたらがっかりする。こういうことあるわけですね。ただこれは、単なる自己保存かというと、そうでもないんだよね、そうでもない。 なぜそうでもないと言えるかっていうと、人間の心の構造の基本的な骨組みのなかに、こうした他人からの愛を受けたいという部分があるんだなあ、ある。なぜ受けたいかと言うとね、やはりね、心というのはね、車のガソリンタンクみたいなものでね、どんどんガソリンが滅っていくんですよ。ね、車だって走っているうちにガソリン減っていくでしょう。そして時どきガソリンスタンド入って、ガソリンの補給をしなきゃいけないね。こうしたもんなんだなあ。 すなわちね、愛というのは人間として、人間が生きていくためのね、ガソリンみたいなところがあるんだよ、燃料みたいなね。これがなければ、砂漠に咲いたサボテンみたいなもので、ほんと可哀相なものなんだ。愛があるから走り続けることができるんだよ。人間は、やっぱり自分が人から愛されていると思うから、走っていくことができるし、人から大切に思われていると思うから、生き甲斐があるし、重要な人物だと思われると、しっかり働くんだよな。そうしたところがあるんだ。 だから「お金が欲しい」と言ったって、本当はお金じゃない。お金で換算されている、自分の重要感が欲しいんだよな。こういうふうにガソリンが欲しいんですよ。車と一緒で、人間というのはガソリンがなかったら走れないようになってるんだなあ。すべての人から嫌われて、それでも生きていくだけの強い人は、そんなにはいないんだよね。 つまり、愛っていうのはね、やはり人生のガソリンだという部分、薪(まき)であり、石炭であり、石油であるという部分、これを忘れちゃいけないよ。だから、もちろん人を愛するという与える愛、これがより高度な愛としてあることは、みなさんもいろいろ本を読んで学んでいるけれども、基本的にガソリンだという部分、愛はガソリンであって、これの補給が必要だということ、これを忘れてはいけない。僕はそう思うね。 2.理想的男女愛 さて、ガソリン的観点から愛を考えておりますが、「理想的な男女愛」っていうことについてもね、私から言ってみたいと思います。 まあ、「高橋信次が理想的な男女愛なんて言えるのか」ってね、「そんな資格あるのかい、君に」って言う人いるでしょう。生前の私のことを知っている人もまだだいぶ生きてますから、その辺についてはね、一言(ひとこと)言いたい方はいっぱいいるでしょう。たとえば「それほどあなたは奥さんを愛しましたか」なーんて言われると、私だってね、随分苦しいですね、返事に苦労する。 「奥さん孝行したか」というと、うーん、したような気もするけど、してないことの方が多い。十分に愛さなかった、尽くさなかった、可愛がってやらなかったっていう気持は、未(いま)だにありますね。奥さんとパンツのゴムひもは強いほどいいっていうような感じで、まあ使いでがあると言ってるような感じでね、接していたこともあったなあと思います。ま、そうした私です。 だから人様にね、「理想的男女愛」について、それほど言えるとは思いません。ただ、地上を去って十数年たった今ね、多少なりともみなさんよりも、わかる範囲も多いし、霊となった今、人間の愛というものを、もう一度こちらの世界に還(かえ)って、考え直す機会というものを与えられています。 そうした立場に立って考えてみるとね、僕はね、やっぱり男女の愛って素晴らしいもんだなあーっていう感じも、随分強くなってきました。執着という観点でとらえる見方も、もちろんひとつあるし、それにもそれなりの説得性があることは事実なんだけども、それだけじゃないね。やっぱり、それだけじゃない。やはり素晴らしい面があるよ、男女の愛にね。よくぞこんなもの創ったなーと思うところがあるね。 男同士が愛し合う、女同士が愛し合うって、なんか変ないやらしい感じがあるけど、男女がね、理想的な男女が愛し合う姿を見て、なんかいやらしい感じがあまりないんだよね。微笑(ほほえ)ましいっていう感じが随分あるね。これはね、やっぱり僕は素晴らしい神様の傑作だなあーと思うね。男女があるということ、男と女があるっていうこと、これ傑作だなあーって思うね。この愛、補完し合う生物がいるということが、そもそも神様が宇宙の仕組みとして愛というものを考えているっていうことを、痛切に感じさせるんだよね。 みなさん、夫婦が仲良いのを見て、何か文句ありますか。ま、羨(うらや)ましいっていうことはあるだろうけど、いいねえ。また若いカップルが仲いいのも、やっぱりいいですね。彼らは本能で動いているかもしれないけれども、ただ、やっぱり僕はいいなあっていう感じを受けます。 結局何がいいかって言うとね、一緒にいるだけで嬉しいっていう感覚、これがなんとも言えないですね。そういう感覚なんですね。たとえばみなさん、家のなかにヘビがいたらどうですか、いい気持しますか。お風呂のなかにワニがいたらどうでしょうか。気持がいいでしょうかねえ。あるいは、床の間にフクロウなんかいて、目ギラギラしていたらどうでしょうか。あるいは、寝室のなかに蚊が一匹飛び込んだだけで、どうでしょうか。いやでしょう。 ところが男女というのは、お互いにいるだけでいい。相手が側(そば)にいて話ができる。あるいは手を触れ合ったりね、語り合ったりできる。これが嬉しいんだなあ。こうしたことがありますね。これを見て、よくぞ創ったりと思いますね。こうした傑作ですね。神様の傑作だなあと僕は思います。 だからなんというかなあ、そこにね、僕は神のね、神様のなんていうかなあ、いちばんあったかいものを見るんだなあ。この世の中に悪があふれているとか、闘争と破壊の世界だというけど、男女が睦(むつ)み合って、互いに励まし合ったり、愛し合って生きている姿を見た時に、なんて言うか、なんとも言えないほのぼのとしたものを感じます。 ここに、神様っていうのはほんとにあったかい人なんだなあというかね、人って言ったらおかしいけれども、あったかい気持がある方だなあと思います。みなさんいろんな不幸な感覚もあるし、不幸な体験もあるかも知れないけれども、あれだけ多くの愛を生み出している、若い男女の幸せを生み出している神様っていうのは、非常に心根のあったかいところがある方だなあと、僕はそう思います。 だから理想的男女愛っていうのは、結局、一緒にいて生活しているなかに、やっぱり神様の微笑(ほほえ)みを感じさせる、神様の微笑みですね、神様が微笑みかけているような感じ、これを受けさせる男女だな。こういう男女でありなさい。お互い喧嘩(けんか)ばかりしていないで、微笑みをね、神様がニコッと笑いかけるような、そういう男女であってほしい。これが理想的だね。ま、具体的条件はいくらでもあるけど、まあそんなことはどうでもいいよ。こうした男女でありなさい。僕はそう思うよ。 3.男女愛の発展 さて、そうした男女愛だけども、仲睦まじく生きたら、それでいいのか。それだけで果たして十分なのか。それ以上に何か必要とされるものがあるんじゃないか。「愛の発展段階」なんて説くような人もいるから、男女愛だって何かの発展段階があるんじゃないか。ま、こういうことを、僕も考えてみたいと思うんだな。 男女の愛って何かなって考えると、まあ恋人の愛があって、それから夫婦愛があるよね。夫婦愛があって、そしてまあそのなかから親子の愛なんかも出てくるけれども、家族愛っていうか、家庭愛、こういうものが出てくるけれども、この男女の愛の発展があるかないかだけど、僕はあると思うんだな。 それは単に、お互いの存在を好ましいものというか、一緒にいるだけで楽しい、嬉しいっていう感覚から、やがてそれが、社会に対する責任感や義務感に変わっていくところがあるんだね。それは何かっていうと、夫婦が協力してね、一緒になって頑張っていこうっていう瞬間だな。こういうことがあるだろう。 たとえば、今、僕はこちらから、こうした神理の書を問い続けているわけだけども、これを読んで、やはり神理の縁に触れて、一緒に頑張っていこうとする神理家族というか、夫婦がいます。夫婦共に頑張ってね、この神理を広めていこう、伝道していこうと思っている姿、努力している姿を見るとね、時どきポロッと涙が出てきます。涙もろいですから、ポロッと涙が出てきてね、嬉しいね、嬉し泣きしちゃいます。夫婦でよくやってくれてるなあと思ってね、本当に嬉しいなあーと思うことがあります。 だからね、本当の男女愛っていうのは、まず最初の段階ではね、他人を排斥(はいせき)するっていう段階もあると思うんだな。他人の介入を許さない。水入らずって言うね。夫婦で水入らずで愛を確かめ合う段階があるけれども、これがある程度時期を過ぎていくと、次の段階はね、夫婦ともども、手を携(たずさ)えて社会に貢献していきたい、あるいは神様のために働きたい、こういう段階があるんじゃないかなあと僕は思います。ここまでいかなきゃ嘘ですよ、お互いにね。 1十1が2になっているだけでは、本当の男女愛としては完成した姿じゃないと思うんだね。男女が子供を産む、卵を産むように子供を産むだけでもっていいっていうんじゃない。男女愛の発展はね、やはりこれは、社会に対する大いなる還元だと僕は思います。男一人、女一人で生きていくのに比べて、男女が結合するということによって何倍も強くなるところがあると思う。 体制が固まり、磐石(ばんじゃく)になり、男はますます仕事にやりがいが出、奥さんは奥さんでね、家庭を守っていってもり立てていく。一家をもり立てていくということにね、ものすごい生き甲斐(がい)を感じる時があります。こういう時は、世の中に対して、あふれてきた力でもっていろいろと還元していくことができると思うんだな。僕はこれが大事だと思います。 すなわち、男女愛の発展には、やはり社会への還元がある。社会への還元をなんら生まないような男女っていうのは、何かそこに独占の臭(にお)いがあり、排他の臭いがあり、嫌な臭いがあると思います。やはり、純粋なる結晶、愛の結晶が、さらに次なる大きな結晶を生んでいく、人びとへの愛を生んでいく、こうでなければいけない。 本当の仲睦まじい夫婦というのは、それが存在するだけで、隣り近所や友人たちへもいい影響を与えていきます。仲睦まじく社会のために奉仕しようとしている男女は、カップルは、やがて、他の愛を生んでいきます。他の幸福を生んでいきます。僕はそれが、とても大事なことではないかと考えるのです。 4.人への愛と社会への愛 さて、こうしてみるとね、愛にも発展という概念を通して、二通りの方向性があると思うんだね。ひとつは「人への愛」だね。人への愛という面がある。もうひとつは「社会への愛」という面だな。この両方の面がある。僕はそう思います。 さて、「人への愛」、これは何かっていうとね、ま、相手、自分の片割れだね、魂の片割れへの愛もひとつだけども、それ以外に他人さんへの愛っていうのがあるね。イエス様の言うような「汝の隣人を愛せよ」「汝の隣り人を愛せよ」と、まあこういう愛があるね。ま、この愛は非常に難しいです。奥さんを愛するとか、子供を愛するというような間違いのない愛と違って、隣人を愛する、隣り人を愛するっていうのは、これはまあ非常に難しい面があるよ。難しいんですね。 変にやると他人を駄目にしてしまったり、他人の何というかね、自立心をなくすっていうこともあるんだね。この愛の難しさね。知恵をもって与えるっていうことの大事さです。じゃあ与える愛がいいからって、財布ごとみんなに配ったらいいかっていったら、そんなことないですね。それが必ずしもいいことじゃない。知恵をもって与えるということが、何にもまして大事なこととなってきますね。知恵をもって与える。これが、人への愛において、大事な観点だと思います。 知恵をもって与えることをしないと、大変な誤解を生み、人のために尽くしていると思うこと、奉仕していると思うことが、実は悲惨な結果を招くことがあります。「あんなにしてやったのに」ということですね、よく言います。「あれほど尽くしてやったのに私を裏切った」「あれはどやってやったのに感謝をしない。恩知らすだ」、こういうことはいくらでもあるんですね。 人間っていうのは基本的に、私は思うんだけれど、恩知らずですよ。基本的に恩知らずだと思っておいたらいいよ。間違いがない。自分が人にしてあげたことなんかはよく覚えているけど、してもらったことはすぐ忘れるんですよ。だけどこれはね、人間っていうのはそういう生き物だと思っておくのが間違いがないですね。だから「人への感謝がない」なんて、あまり強制してはいけないね。自分が感謝するように努力することは大事だけれども、人の感謝がないっていうこと、感謝、見返りを求めて努力することはよくないね。 だから、つまりこういうことなんだ。大事なのはね、知恵をもって与える。本当にその人の進歩にとって役に立つか。こうした面があるっていうことだね。これを人への愛ということで、特に注意してほしい。このように僕は思います。 あとね、「社会への愛」というのがあります。これは難しいですが、ここの部分で、その人のね、器(うつわ)が問われるんですね。いわゆる善良な人には自分の努力でなれるけども、社会への愛っていうのはね、単なる自分の内なる努力だけではなくて、外的なる行動力だね、これが必要ですね。社会への愛というものを体現していくためには、これを発揮していくためには、外に向けての行動力が大事です。この外に向けての行動力がなければ、社会への愛というのは実践できません。 社会への愛って何か。まあひとつにはこれは職業だね、これを通してやっていくということが大事です。どんな職業も神へ通じる道があると言われますけれども、まあ福沢諭吉かなんかも言っていたね、「この世でいちばん辛いことは、職業を持たないことだ」というようなことを言ってたと思うけども、それは確かにその通りでね。職業っていうのは金を生むかどうかっていうことはまあ別にして、やはりなんらかの世の中への貢献という道がなければ、辛いです。それは実に辛いものだと私は思います。 だから、職業のなかでいちばんいけないのは、その職業自体が人を害するような、そうした傾向のある職業だね。これだけはやはり、私はちょっと我慢がならないっていう感じがしますね。もちろん完全なる善だけの職業っていうのはないけども、いいところと悪いところと比較してね、社会を害するところの多い職業っていうのは、これは早目に転職した方がいい。まあこう思います。 だからまず、社会への愛としてはね、職業です。職業を通じて人びとを良くしていく、そういう努力が大事であろうと思います。 社会への愛の第二は一体何かというと、これは職業を離れた部分での活動だね。奉仕と言ってもいい。こうした部分だね。こうした時間を持てる人というのは、僕は実に立派だと思います。他の人びとの進歩のために、進化のために時間を持てる。こういう人びとは本当に素晴らしい。そのように思います。 これからはね、みなさん、神理の時代ですよ。でも職業だけではね、なかなか神理を織り込んでいく、盛り込んでいくっていうことは非常に困難です。けれども、職業を離れた領域において、社会に還元していく、人びとに還元していくことは可能だと思います。特に土日であるとか、普段の夜とかありますね。こうした時にしっかり神理を勉強してね、そして多くの人びとを導いていく。こういうことが大事であろうと思います。 だからね、僕の本読んだらね、ただ読みっ放しにしないで、これはいいと思ったその内容を人に教えてあげて下さいよ。僕はそう思うね。「『高橋信次の新ユートピア論』面白かったなあー」といってね。ポイッとゴミ箱に捨てたりしないで、あるいは恥ずかしがってね、本棚のなかに寝かしておかないでね、やっぱり僕はこれを広げてほしいと思いますね。多くの人に読んでほしいです。 僕がこれだけ声をふりしぼって話してる内容はね、できるだけ多くの人に、一人でも多くの人に、神理を知ってほしい、読んでほしい、一行でも多くの神理を語りたい、こうした気持が僕の心のなかにあります。だからこそ、この本で何冊目になりましょうか、九冊目になるかと思いますけれども、これだけ矢継早(やつぎばや)に本を出してるんですね。これは、私の愛ですよ。人びとへの愛、社会への愛、残された人類への愛です。それゆえに私はやっています。 こうして霊言を出すことによって、私は得ることはないんです。私がお金を儲けることもなければ、あなた方が称賛しても、それを直接私がみなさんの前で表彰されるというようなこともありません。ただ縁の下の力持ちとして、私はみなさんになんらかの愛を与えたい。こういう愛もあるんですね。これも社会への愛だと思います。 こうした社会への愛の発展形態として、やはり「神への愛」があると思う。神への愛というのがあるけれども、これは神への愛というものが純粋にあるかといったら、そうじゃない。やっぱり人への愛と社会への愛、この二つの両輪だな、両輪を通して神への愛というものがある。ま、僕はそう思います。だから、そうした考え方を大事にしていただきたいと思います。 5.愛とユートピア さて、愛についていろいろ語ったわけだけれども、「愛とユートピア」という命題だね、これについても語っておきたいと思います。愛は、ユートピアづくりに不可欠かどうかという考え方です。ま、結論から言えば、僕は要ると思うね。ユートピアに愛は必要、そのように感じます。 結局ね、ユートピアっていうのは、ひとつの立体的な建造物だと僕は思うんだね。立体的な建造物だと思う。で、愛っていうのが何かっていうとね、愛っていうのは、やっぱりセメントだね。セメントであって、ま、レンガとレンガをくっつけたりね、鉄柱と他の材木をくっつけたり、いろんなことするけど、まあ、セメントあるいは壁土みたいなね、そういうふうにいろんなものをくっつけていくもんだなあ。これが愛じゃないかねえ、僕はそう思うよ。もちろん釘であったりすることもあるだろうし、綱や縄であったりするようなこともあるだろうけども、こういうふうに結び付けていく力が、これが愛だね。 ユートピアっていうのは、ひとつの建造物ですよ。社会的な建造物だ。そうした大きな建造物だと思うんだな。あるいは知的生産物と言ってもいい。あるいは人間の行動による生産物といってもいい。それがユートピアであると思うんだね。ユートピアは結果だな、結果。そしてユートピアを生むための、人と人との力を結合させるためのもの、それが愛じゃないかと思うね。 結局ね、他の人を良きものと思い、もっと素晴らしくなってほしいと思う情熱、エネルギーがなければ、社会は良くなることはないんだ。そうした情熱がなければ、私たちが霊示集送ることもない。そんな意味もないし、それを読んで、熱意に燃えて人びとに伝道する意味もないことになる。ユートピアをつくるためには、やはり、多くの人たちのために尽くしたいという愛、これがあるし、こうした仕事に終わりというものは決してないと思う。神の心も、すべての人が幸せになってほしいという心だし、高級霊たちの心もまったく同じであり、できるだけ一人でも多くの人を、本当の意味で立ち直らしたい、素晴らしくしたい。こうした気持で生きています。これが神の心です。 したがってね、人間も小さな神、あるいは神のひとり子ではないけれども、神の分身として、あるいは神の子として生きているわけだから、ユートピアづくりのために、やはり愛というものを武器としてね、あるいは愛というものをかすがいとして、力強く立ち直っていく、立ち上がっていく必要があると思う。 どうだろうかねえ、愛と言ったら、結婚式のことばっかり考えている人がほとんどじゃないかね。僕はそれじゃいかんと思うよ。結婚式の時を離れた愛、新婚旅行の時期を離れた愛というのが、どうしても大事だ。そうした時に、醒(さ)めた時に、醒めた理性の目でもって、愛を実践できるようなみなさんであるかどうか。 愛というのはね、何かってわからなきゃ、それは優しい心だよ、一言(ひとこと)で言って。わかるかい、優しい心だよ。それが愛だよ。優しい心、ね。他人のことを深く思ってやる心。よくしてあげたいと思う心、ね。優しさですよ、愛っていうのはね、みなさん。一言で言ったら優しさだ。この優しさなくしては、ユートピアはないんだ。ユートピアっていうのはゴツゴツしたもんじゃないんだよ。優しいもんなんだよ。羊の皮のようなね、優しい手ざわり、これがユートピアなんだね。 だからいいかい、愛っていうのは優しい心だよ、真心だよ。これを愛というんだ、ね。その愛の心をもって、ユートピアづくりに励みたい。まあ私もそう思っているし、みんなもそう思っているだろう、ね。そうしたことを起点として、出発点として、さらにユートピアの思想について話をしていきたいと思います。
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ポートピア連続殺人事件 プレイ動画 ポートピア連続殺人事件最速クリア? ポートピア連続殺人事件 タイムアタック 5分クリア
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基礎データ ブランド名 神戸ポートピアホテル 会社名 株式会社神戸ポートピアホテル 電話番号 Fax番号 メール 企業分類 ホテル 現在の問合せ結果 × 現在のコメント メール返信なし 最終更新日 2009/03/13 特記事項 基礎データ特記事項 神戸ポートピアホテル2008年7月25日の毎日朝刊に広告あり 他、広告あり 03/12 ×(メール返信なし) 特に新聞に広告を出している企業は毎日新聞にとって泣き所となるようです 問合せ 問合せ先一覧 / 毎日新聞に広告を出していた企業(日付別) / 毎日jpに広告を出していた企業 / 電話問合せのコツ 結果別一覧 ◎◎-◎-○ / △ / ×(記号、数字、ローマ字) / ×(ひらがな) / ×(カタカナ・ア行~ナ行) / ×(カタカナ・ハ行~ワ行) / ×(漢字・あ行~か行) / ×(漢字・さ行~た行) / ×(漢字・な行~は行) / ×(漢字・ま行~わ行) 分野別一覧 製造業 / 製造業その他 / 小売、卸売 / サービス業、娯楽 / 医療、医薬 / 建設、不動産 / 金融、運輸、IT、その他 / マスコミ、出版 行政等一覧 行政、各種団体等 / 教育機関等 / 政治家、著名人 毎日新聞系列 【その1】 【その2】 【その3】 【その4】 【その5】 【その6】 【その7】 【その8】 【その9】 問合せ報告 毎日新聞関係の凸結果を淡々と張り続けるスレ7 ※「電凸」とは「電話問合せ」のインターネットスラング(俗語)です。(詳細は用語集) 対応評価の大まかな目安 ◎◎ 広告打ち切り・今後広告を出さない・今後広告を出す予定はない ◎ 良対応・厳重な抗議 ○ 普通、中立対応・対応検討中、今後注視 △ 保留・問合せの返答結果待ち(3日以内に回答なければ×) × 悪対応・無回答・処分は十分毎日の姿勢を容認・広告続行 このテンプレを編集 神戸ポートピアホテル 2008年7月25日の毎日朝刊に広告あり 他、 広告あり 03/12 ×(メール返信なし) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事160 http //changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1235566659/744 744 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中[sage] 投稿日:2009/03/12(木) 23 40 55 ID jDhWYeEG0 メールのお返事です ポートピアホテル→メール返信無し 検索 2008年7月25日の毎日朝刊 広告一覧 2009年11月21日の毎日朝刊 広告一覧 2009年12月30日の毎日朝刊 広告一覧 2009年4月14日の毎日朝刊 広告一覧 2009年4月26日の毎日朝刊 広告一覧 2009年5月27日の毎日夕刊 広告一覧 2009年5月29日の毎日朝刊 広告一覧 2009年6月27日の毎日朝刊 広告一覧 2009年7月15日の毎日夕刊 広告一覧 2009年7月24日の毎日朝刊 広告一覧 2009年8月05日の毎日朝刊 広告一覧 2009年8月22日の毎日朝刊 広告一覧 2009年9月18日の毎日朝刊 広告一覧 2010年1月17日の毎日朝刊 広告一覧 2010年3月04日の毎日朝刊 広告一覧 2010年3月20日の毎日朝刊 広告一覧 問合せ結果分野別一覧その7 問合せ結果別一覧 ×対応の企業(漢字で始まる企業名・あ行~か行)
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朝日ゴルフクラブ 白浜コースをお気に入りに追加 楽天課 <朝日ゴルフクラブ 白浜コース> 楽天GORAでコースガイドを見る、予約をする。 情報1課 <朝日ゴルフクラブ 白浜コース> #bf 外部リンク課 <朝日ゴルフクラブ 白浜コース> ウィキペディア(Wikipedia) - 朝日ゴルフクラブ 白浜コース 楽天GORAで探す プレー曜日 平日 土日祝 プレー料金 指定なし 5,000 7,000 9,000 10,000 12,000 14,000 16,000 18,000 20,000 円~ 指定なし 5,000 6,000 8,000 10,000 11,000 13,000 15,000 17,000 19,000 21,000 23,000 25,000 円 エリア 全地域 北海道・東北 北海道 青森県 岩手県 宮城県 秋田県 山形県 福島県 関東 茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県 長野県 静岡県 北陸 新潟県 富山県 石川県 福井県 中部 岐阜県 愛知県 三重県 近畿 滋賀県 京都府 大阪府 兵庫県 奈良県 和歌山県 中国 鳥取県 島根県 岡山県 広島県 山口県 四国 徳島県 香川県 愛媛県 高知県 九州・沖縄 福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県 沖縄県 海外 Amazon.co.jp ウィジェット 保存課 <朝日ゴルフクラブ 白浜コース> 使い方 サイト名 URL 0314_golf-ladies_165x100%5B1%5D.jpg ezaki-g165.jpg 20090902_golf_putter_165x100.jpg 1221_golf-comparison_165x100.jpg 情報2課 <朝日ゴルフクラブ 白浜コース> #blogsearch2 成分解析課 <朝日ゴルフクラブ 白浜コース> 朝日ゴルフクラブ 白浜コースの97%はハッタリで出来ています。朝日ゴルフクラブ 白浜コースの1%は微妙さで出来ています。朝日ゴルフクラブ 白浜コースの1%は気合で出来ています。朝日ゴルフクラブ 白浜コースの1%は柳の樹皮で出来ています。 報道課 <朝日ゴルフクラブ 白浜コース> 「よいゴルフ場」があると思う都道府県は? 3県を解説!(ねとらぼ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 葉が落ちないうちに今すぐ予約!紅葉がきれいなゴルフ場5選(関西編)(e!Golf) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 情報3課 <朝日ゴルフクラブ 白浜コース> #technorati JAWS_260.jpg CAJ3CYVY.jpg 楽天GORAゴルフ場索引 北海道・東北 関東 北陸 中部 近畿 中国 四国 九州・沖縄 海外 楽天売れ筋ランキング ゴルフ総合 クラブ(メンズ) クラブ(レディース) ボール グローブ シューズ メンズウエア レディースウエア バッグ ヘッドカバー トレーニング用具 パーツ 小物 コンペ用品 その他 楽天売れ筋ランキング レディースファッション・靴 メンズファッション・靴 バッグ・小物・ブランド雑貨 インナー・下着・ナイトウエア ジュエリー・腕時計 食品 スイーツ 水・ソフトドリンク ビール・洋酒 日本酒・焼酎 パソコン・周辺機器 家電・AV・カメラ インテリア・寝具・収納 キッチン・日用品雑貨・文具 ダイエット・健康 医薬品・コンタクト・介護 美容・コスメ・香水 スポーツ・アウトドア 花・ガーデン・DIY おもちゃ・ホビー・ゲーム CD・DVD・楽器 車用品・バイク用品 ペット・ペットグッズ キッズ・ベビー・マタニティ 本・雑誌・コミック ページ先頭へ 朝日ゴルフクラブ 白浜コース このサイトについて 当サイトはキーワード毎にインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ページをブックマークしておけば、ほぼ毎日そのキーワードに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、キーワードが同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
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"駅の反対側に行くには、地下道を通るのが一番早いです。 でも、自転車を押してだとかなり疲れます。 降りるときはまだマシなのですが、上りはかなり辛いです。 自転車の重さが腕にのしかかる感じで、本当に嫌になります。 でも、最近ハマっている100円ショップも、病院も全て駅の反対側にあるので、仕方なくその地下道を通っています。 子供や主人はどうってことないと言いますが、40過ぎのおばさんにはかなりの重労働です。 もう少しこの道、なんとかならないのかなと思ってしまいます。"
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目次 1.仏国土・ユートピアとは 2.転生輪廻の法則 3.光の天使の使命 4.菩薩界の建設 5.神は光なり (1988年4月18日の霊示) 1.仏国土・ユートピアとは さて、本章ではユートピア建設について、いろんな話をしてみたいと思います。 私も生前から、人間の地上に生まれてくる目的のひとつは、やはり「仏国土・ユートピアの建設にある」、こういうことをよく言っておりました。まさしくその通りです。私たちが地上に生まれてくる目的は、ひとつには己(おの)れの魂の修行、魂の進化目的というものがありますが、今ひとつには仏国土・ユートピアの建設、こういう目的があるんですね。 これは結局どういうことかというと、神が創った国ですね、世界、これをすべて良くしていこうとする動きですね。良くしていくというのはどういうことかと言うと、そこに住んでいる人が良くなって、そして、住んでいる人同士が仲良く暮らせる。素晴らしく暮せる。幸せな世界が広がる。まあこういうことを、考えているということなんです。 この仏国土・ユートピアの建設というのは、非常に大事な使命であると思います。そして、人間というのは、自分の念(おも)いを実現する力というのがありますね。念いを実現していく、実現化していく、そういう力がありますが、このユートピアの実現というものも、一人でも多くの人が、そうしたことをやりたいと強く願うことによって、現実性を帯びてくるんです。一歩一歩現実へと近づいていく、ということが言えるんです。 だからやはり、まず念わなければ駄目です。念うところから出発するんです。できるだけ多くの人が、仏国土・ユートピアをつくりたい、仏の国をつくりたい、神の国をこの地上につくりたいこういうことを願うことによって、それが一歩一歩近づいていくんです。ところが大多数の人たちというのは、そんなこと考えてもいないんです。あるいはユートピアというようなことを考えていても、それは頭の隅のどこかにあるのであって、現実生活はまったく別々にあるんです。まったく無関係です。 現実の生活は、今日の晩ご飯のおかずを何にするか、タイのお頭がつくかつかないかね。うちの父ちゃんのボーナスが上がるか上がらんかね。地方転勤になったけど早く帰って来ないかとかね。海外勤務についていけるだろうかとか、まあこんなことばかりが気になっていて、なかなかそうした理想論からは遠い現状があるわけですね。 また実社会のなかで働いていても、「自分はユートピア建設のために頑張るんだ」なんて言っていると、非常にシラジラしく聞こえる。こうしたことはあるでしょう。どうでしょうか、みなさん、経験ありませんか。「自分は他の人びとの幸福のために生きるんだ」なんて言っているのを聞いて、「なんだあ青くせえ、ガキみたいだな」とかね。「ああ二十二、三の青年だあ」なんていうふうに言わないでしょうかね。三十歳過ぎて、四十過ぎたら、もう赤ちょうちんの下くぐって焼鳥食べているのが関の山でね、ビール一杯飲むか、二杯飲むかね、底なしか、こんなのを一生懸命競っていますね。そうじゃないでしょうかね。だから青くさく感じるんですね。 ところが実は、青くさく感じるもののなかに、真実があることもあるんだな。人間は自分が年を取ると、経験ということに自信があるかどうか知らないけど、「若い者はね、理想に走りやすいけど、まあ現実はそんなもんじゃないよ」なんて、こういうことを言うようになりますね。 そして、自分の経験ということを主張するけれども、人間の経験というのは、亀の甲羅(こうら)ほどの値打ちもないこともあるんです。つまり、良い方向に向かって一生懸命努力している場合、その経験は蓄積されていって力になるけれども、方向が全然違うところに向いていて経験、蓄積していっても、これは亀の甲羅に苔(こけ)が生えているような、そんな効果しかないこともありますね。 だから、経験と一言で言うことも、まあ、いろんな見方があって一概には言えない。もちろん、いろんなことを知ってきているという意味で、値打ちはあるけれども、その結果、人間がどうなったか、これが問題なわけだな。人間が良くなっていればいいけど、悪くなっていればなんのために経験したかわからないねえ。ヤクザさんの経験ばかり一生懸命積んだって、世の中わかったとは言えない。そうでしょう。どうかな。ね、そうしたもんなんですよ。 だからね、まあ青くさいと思われるユートピア議論のなかに、本当は真実のものがあるんだな。イエス様だって言っているじゃないか。「幼子(おさなご)の如くならなければ、天国へは入れない」って言っているね。幼子の如くって言うのは、まあ赤ちゃんのように無邪気だということだ。大人で赤ちゃんのように無邪気な人は、そう多くはいないだろうけど、まあ青年だね、「青くさくなければ、天国の門は開かん」とこういうことですね。 ま、青くさいと言っても、ゲバ棒ふるっているような学生じゃ、こういう青くささでは天国へは入れませんが、やはり理想というものを失う人間は駄目ですよ。理想とロマンがなければね、人間、本当は駄目ですよ。理想とロマンを失っていく。これが人生の歴史であることが多い。ただ、二十歳過ぎても、三十過ぎても、四十過ぎても、五十過ぎても、六十過ぎてもね、理想を掲げて生きれる人間、これはやはり、ユートピアの戦士であるし、神様の心に近いね。 だから、僕は思うけど、七十、八十になってもまだ理想のある人、立派だね。これは偉人ですよ、一種の偉人だ。だからみなさんどうだ、六十過ぎて七十ぐらいになってくると、もう愚痴(ぐち)ばっかり出るよ。体が痛い、あっちが痛い、こっちが痛い。孫が言うことを聞かんだの、何だのね。 そういうふうな人の悪口、愚痴になっていきますね。これ、平凡人って言います。だから六十、七十過ぎて、そしてまだユートピア建設なんかの理想があると、これは平凡じゃありません。やはり一種の偉人だと思います。歴史に名前が残るかどうかは別だけれども、一種の偉人であることは事実です。 だからね、僕はみなさん年齢に関係なく、あんまり醒(さ)めてほしくないね。ホットな心を忘れないでほしい、情熱をね。そしていくつになっても仏国土・ユートピアという理想を持っててほしい。念うことから始まるんですよ。だから一人でも多くの人が、それを念うということによって、実際に始まっていくんですね。そう思いますよ。 2.転生輪廻の法則 この仏国土・ユートピアを考える際に、私は大切な思想のひとつだと思うのが、やはり「転生輪廻(てんしょうりんね)の法則」です。ま、これは仏教の根本中の根本です。「人間は幾度(いくたび)、幾度も生まれ変わる」「あの世とこの世を循環している」、こういうふうに言われています。 ただ、この生まれ変わりの法則も、原始仏教のなかでは、人間がトカゲに生まれたり、ヘビに生まれたり、カエルに生まれたり、ウサギに生まれたり、まあいろんなものに生まれ変わるようなことも言っているけども、ま、原則それはないっていうことです。例外としては、もちろんないことはないけれども、原則はない。こう考えていいんだな。人間がウサギに生まれたり、ブタに生まれたりっていうことは、そんなにありません。まあめったにない。よっぽどなにか魂修行でもなければ、そういうことはない。ま、ごくごく例外としてね、非常にまれな例外として、ないことはないけどね。 すなわち、なんというかなあ、人間として生まれ変わることの有り難さというのは、もうそういうことをする以外に、わからせることができないというような人ね。こういう人の場合には、たまに一時期ね、一年や二年、動物のなかに宿(やど)って修行するということもないことはないけど、やはり魂は人間です。魂は人間であって、長い意味においては、それも進化の一過程ですね。 だから、たとえばみなさん、自分で想像してみて下さいよ。今世人間やっているけど、人間として今世何十年か生きるけど、やっぱり点数はつくんだよ、必すね。一生の点数つくんだよ。九十点以上とった人、八十点以上、七十点以上、六十点以上、五十点以上、あるんだな、いろいろ点数はつきます。 たとえば、もしそれでね、二十点以下だったら、人間として生まれないっていうような点数だったらどうする。ゾクッとくるだろう。急に心配になってきて、「おう、そうか、それじゃ勉強しなきゃいかんな」と、こうなるねえ。二十点以下だったら動物になっちゃう、なんてね。十五点か二十点の間は犬になって、十点から十四点までの間は猫になってとかね。十点未満は猿になるとか、そんなことだったらみなさん大変ですね。血相を変えちゃいますね。 ま、こういうふうになりますが、単純な動物への生まれ変わりということは、現状ではないけれども、あまりに極悪非道で動物的な畜生のような生涯を送った人の場合には、いったん畜生道に堕(お)ちた後で動物として生まれ変わってくることも、可能性としてはあります。 ただ、長い目では人間として、もちろん戻していくつもりであるけれども、二年や三年ね、たとえば犬という体に宿ることによって、人間としての意識は全部あるわけですが、体が犬、でロを開けばワンワンとしか言えない。これ苦痛ですね。で、飼い主たちが話していることは全部わかるんですね。全部わかるけど、自分の意思表示ができない。そして与えられる食物を食べるだけ。自由な範囲としては、鎖につながれているけど、一日一回散歩につれていってもらえること。これだけが自由。 こうした経験を本当に二年ぐらい積んでみるとどうなるかというと、もう犬の目で見れば、人間ていうのはものすごく限りなくうらやましく見えるんですね。そして、この次に人間として生まれてくる時には、どうかその自由、人間として生まれることの素晴らしさを学んで、精いっぱい生きてみよう。こういうふうな決意ができたら、もう犬に生まれることはないです。人間として生きていくことになるけれども、一部動物のなかには、そういう者もいるんです。 すなわち、人間的感情をそっくり持っている動物もいるんです。ペットを飼っている人のなかに、そういうのを感じる人もいるでしょう。これは人間と一緒だなあ、と思うような感じがあると思いますが、そういう魂もなかにはいるんですね。そして、人間としての素晴らしさを感じることがあります。 まあそれは例外であって、たいていの場合は、天上界と地上界を人間として転生輪廻しています。それが普通の場合です。 そうして、そういう転生輪廻をやっているということによって、ひとつの結論が導かれると思うんです。それは何かというと、一回限りの人生だと思うからこそ、自分の勝手気ままにやりたい、やりたいことをやりたいと思うけれども、何度も何度も転生を繰り返しているとするならば、やはりその間、自分の魂の向上と、それと多くの人たちのために尽くしたいという気持が、みなさん起きないでしょうか。この辺どうでしょうか。まあ、そういうことだと思うんですね。 たとえば、自分の財布の中に千円札しか入っていないと思えば、買い物もできないけども、いっくらでも本当はお金があるんだと思えば、いろんな買い物もできますね。いろんな行動もとれますね。そういうことがありますが、本当は無限の生命を生きていて、いろんな地域に、いろんな時代に生まれてきて、魂経験をするという思想を持っているということは、一体どういうことか。そういう観点からもう一回見てごらん。 たとえば、今の二十世紀の日本に生まれるということは、どういうことかということを考えてみると、ああこれはまれなチャンスだなあと思う。こうした非常に高度に発達した文明に、そうした仏法が説かれる時代に生まれ合わせたということは、有り難いことだよね。 この感激というのを忘れちゃあいけないね。この感激を感じたら、さあじゃあどうする、ということになるわけだな。じゃあ一生人間遊んで暮らして、一生酒飲んで、一生女性とつき合って、一生それだけかどうかだな。考えてみたら、そうでもないなあ。やはり、もっと有意義なことをしなければいけない。そんなちゃらんぽらんな人生でいいと思うかい。そうだろう。 だから、自分が死んだ時のことを考えて、自分の人生を振り返ってみた時に、そこにやはり何かの反省点があるんじゃないかい。僕はそう思うよ。そこには、何か死んだ時のことを考えたら、「ああしまった。もっとああしとけばよかった」ということがあるんじゃないかい。そうしたことをひとつの発想の出発点としてね、ユートピアというのも考えていく必要がある。まあ僕は、そういうふうに思うねえ。 3.光の天使の使命 まあ、こうしたユートピアづくりだけども、やはりね、物事には、いつの時代にも先生役っていうのがいるんですね。先生がいなきゃあ、やっぱりわからんところもある。学校にも先生がいるぐらいだから、やっぱりユートピアづくりにも先生がいるんじゃないかと、まあこういうことだな。 この先生になっているのが、光の天使たちなんですね。光の天使として地上に出る人、これが先生なわけですね。そしてその先生の後ろ姿を見て、人はついてくるわけです。この世的に人材登用、選出の方法はいくらでもあるわけだけども、先生方がいわゆる神理を悟っているわけではない。だから、まあ光の天使が地上にも数多く出るわけだけれども、どれが本当の光の天使かどうか、これがわかりにくいね。随分わかりにくいということがあると思いますね。 宗教家も数多いけど、区別がつかないね。みんなどうだい、つくかい。それぞれの人が勝手なこと言っているね。勝手なことを言って、基本的になんだかんだ言いながら、自分のところが最高の教えで他はそうじゃない。こういうことだね。これは、商道徳よりも劣るような状況じゃないかと思うね。ショッピングセンターとか商店街があって、いろんな店やってるけど、みんなどうだい、自分のところだけが本物の品物で、よそはにせ物だなんて、そんなことやってるだろうか。そうじゃないね、いろんな店が集まって、やっぱりなんていうかね、ひとつの繁栄というか、発展、賑(にぎ)わいというのをつくっているんじゃないかね。 だから僕はね、宗教界にも、もう少し寛容の精神が大事だなあと思います。光の天使は、他にも出ていることはあります。光の天使じゃない曇りの天使というのも、まあもちろんいるけれども、なんていうかなあ、やっぱり自分たち以外のところでもね、いいものはやはり誉めてやらなければいけない。 まあただね、問題としてあるのは、宗教界は特に極端が出るんですね。両極端が出る。通常の他の団体だったら、別に光の天使も指導していないかわりに、曇りの天使も指導していないっていうような状況がほとんどだね。ところが宗教界だけは光の天使が指導したり、曇りの天使が指導したりっていうのは非常に濃厚になることがあります。光が強ければ強いほど、影も濃くなる。こういう状況が、現実にあるわけです。 こういうことによって、まあ非常に極端に分かれる。ただ、極端に教えが分かれるけど、そのどれが正しいのか、これが本当にわからないね。だから、真剣に道を求める人にとっては、求めている人にとっては、手引書というのがどうしても必要だ。いちばんいい教え、方向、それはいったい何なのか。どの教えについていけばいいのか。そして、どういう考え方でもって他の教えのことを考えればいいのか。こういうベースがどうしても必要だ。 僕はこれは、現代においてはものすごく貴重な教えだと思うよ。ものすごく貴重じゃないかい。きっとそうだと思う。だから今、私もこうやって霊示集出しているけど、まあそれ以外の人もいろんな教え出しているけれども、光の天使の思想とはいったい何なのかということが、ものすごくはっきりしてきたのではないか。 どうだいみなさん、もうこれで三十何冊目か四十冊目か僕は知らないが、随分本が出ましたが、こういうの読んでくることによって、光の天使の思想とはいったいどの辺にあるのかということが、漠然とではあるけど段だんわかってきたんじゃないかい。ね、どうだい、共通の部分がどの辺にあるのか、こういうのがわかってきたんじゃないかな。そして、それぞれの現在ある古い宗教などの神理が、どの程度残っているのか、どのような輝きが残っているのかね、こうしたものもわかってきたんじゃないでしょうか。まあそう思います。 だからね、もちろんどんな宗教のなかにもいいところはあるけれども、そのなかにも多少間違いもあるし、いいところもある。まあいろいろ考え方があるけれど、霊示集、霊訓集を次つぎと私たちがたたみかけることによって、本当の神理っていうのがどういうところかということが、ニュアンスとしてだいたい感覚がわかってきたのではないでしょうか。その感覚をもとにして、既成のいろんな教えというものを判断した時に、だいたい匂いというものが、そういうものがわかるんじゃないかなあと、僕はそういうふうに思います。 ですから、まあ光の天使の仕事として、私たちは今、天上界からもやってるけれども、地上にも数多くの光の天使が出ているっていうことを、みなさん忘れてはいけないよ。特に、光の天使たちは最後のカルマとして、人より偉くなりたいというカルマをどうしてもみんな持っています。この人より偉くなりたいというカルマが、実は向上心の原動力でもあるし、魂の発展と大いなる仕事の原動力でもあるのだけれども、どうしても人より偉くなりたいっていう気持がある。だから、他人を認めたくないっていう気持があるんだな。 けれども、まあ実際ね、一人だけの力で仏国土・ユートピアができるはずはないんですね。数多くの人たちが、力を合わせてやっていく必要がある。そのように私は思います。ですから、光の天使はやはり、相集まって力を合わせていく、共にひとつの団体でやっていくこともあれば、他の団体でやっていても、お互いに応援歌を送ってやる。まあこういう必要はあるんではないかと思います。 だから、真実の教えだと思ったら、誉めてやるぐらいの雅量(がりょう)、これは大事ですよ。そうして、多くの人が手を携(たずさ)えて、新しいユートピアづくりをしていく。こういう思想を大事にしていただきたい。私はそういうふうに思います。 4.菩薩界の建設 さて、まあこの収録は、現在一九八八年という年数です。もう二十世紀も終わりが来ているわけだけれども、こうした今、天上界にはひとつの大きなプロジェクトがあるんです。それは何かっていうと、この地上世界に、天上界にあるような菩薩界を建設する、こういう大きな計画があるんです。「菩薩界の建設」、これを考えています。そして、菩薩界の建設のために、いったいどういう方法が必要かというと、すなわち菩薩界(ぼさつかい)にあるような、そうした法則性を、この地上に持ち来たらそうと考えているんだね。そういうふうな計画があるということです。 じゃあ菩薩界の掟(おきて)、ルールというものはいったい何か、これについて語ってみたいと思うんだけど、結局ね、菩薩界のルールっていうのは三つに要約されるんですね。三つあります。 菩薩界のルールの第一はね、これは結局、まず常に自分を磨くという姿勢を持っているということ、これがひとつです。常に自ら自己研鑚(けんさん)し、自己向上を目指していくということ。これを菩薩たちは、ひとつのモットーとして持っています。常に自らを向上させていくために努力する。こういうモットーが、ひとつあるのですね。 菩薩界のルールの第二は何かというと、常に他の人びとの幸福を念頭に置いていること。これなんです。他の人びとを、どうやったら幸福にできるかっていうことを、常に念頭に置いている。その意味において、菩薩の世界に住んでいる人たちはお人好しばっかりです。お人好しです。本当にお人好しですね。お人好しの世界なんです。皆さんのなかのずる賢い人から見れば、笑っちゃいますが、本当にお人好しの世界で、お人好しばっかりいるんです。高橋信次みたいなお人好しがいっぱいいるんです。あっちにもこっちにもね。 でもね、僕はいいんじゃないかと思うよ。地上にいる時は、お人好しっていうのは馬鹿みたいで、商売しても損してばっかりいたり、職場でも怒られてばっかりいることも多いけども、お人好しって立派じゃないか。こんな物質世界のなかにおいて、人がいいっていうことは、そのままでいられるっていうことはこんないいことないね。フンフン人の言うことを聞いてあげて、よく騙(だま)されてばっかりいて、損ばっかりしてるけど、でもなんとなくニコニコして生きている。こんなお人好しって非常にいいよねえ。どうだい、僕はそう思うね。だからまあ、言葉を換えればお人好しだけれども、常に他人の幸福を念頭に置いている。これが、菩薩界にいるための第二の条件なんです。 一番目が自己研鑚という姿勢を持っていること。二番目が常に他人の幸福というものを念頭に置いていること。これだったね。 三番目は、やはり、神の使い、使者、あるいは補助者として仕事をするということを自覚しているということだ。神の補助者としての自覚、これが大事です。神そのものになるような人にゃありませんが、菩薩というのは、やはり神の補助者として、あるいは如来(にょらい)の助け人として生きている。これが菩薩の使命です。 すなわち、「神様の仕事を助けるために、少しでも神様が楽になるように、神様の計画が達成されるように、お助けしている。これが私たちの仕事だ」。まあこのように菩薩は思っているわけなんです。根本的な法というもの、それそのものは説くことはできないですが、しかし神様のその法を助ける。そして広める。こういうことをしている。これが菩薩の世界ですね。 ですから、菩薩界の建設が、地上でひとつの目標課題となっているということは、この三つのルールを満たすようになってくるということです。こうしてみると、第一番目に地上に生きている人たちが常に自己研鑚、自己向上の意欲に燃えて生きられるような、そういう風潮をつくっていくこと。第二に、地上に生きている人が、みんな他人の幸福ということを念頭に置いて生活すること。第三番目は、神の補助者として、神の協力者として、神の使命の一端を担う者として生きていくこと。この三つの自覚を持つということです。これがとても大事なわけです。 この三つがだいたい満たされた時に、確かに地上が菩薩界に変わっていくと僕は思います。地上菩薩界の誕生だね。だからみなさん、菩薩になるって難しいことじゃないよ。結局この三つでいいんだよ。自己研鑚を忘れず、他人の幸福を念頭に置いて、そして神の補助者の一人として生きていくこと。これができれば、菩薩です。簡単だろう、どうだ。できない。あっそう。まあできないかもわからないけれども、目標は簡単ですから、この三つですから、これを念頭に置いて生きていくこと。やっぱりこれが大事じゃないかね。 5.神は光なり 本章の終わりに当たりまして、また「神は光なり」ということを、説いておきたいと思います。 神様というのは光そのものです。そして、地上にいる人間には目には見えませんが、実在の世界には神の光が燦(さん)さんと降り注いでいます。そしてその光は、地上にいる人間にも降り注いでいるのです。人間というのは、実際の太陽、三次元の太陽に照らされているだけではなくて、太陽が沈んでいる時にも、実在界の神の光というのは燦(さん)さんと降り注いでいるのです。そして、心調和して生きていればいるほど、その神の光がますますたくさん当たるようになりますし、神の光を妨げるような、そうした想念の曇りをつくっていると、だんだん光が射さなくなってくる。ま、そういうふうな現状になっているわけです。 こうしてみると、この神の光、神が光であるということの探究が、もう少し要(い)るんじゃないかなあと僕は思います。地上にいても、霊道を開いた人はよくわかるんですが、心の窓を開いていると、光というのはね、神の光というのは本当に燦さんと射してくることがあるんです。 そして、日々真実の心を探究しているうちに、たとえば聖者の言葉を聞いて感動をする、あるいは、こうした霊訓集のようなものを読んで感動する、こうした時に、胸に、サァーッと暖かいものが射してくる感じがあるのです。サァーッと胸が暖かくなって、顔に赤みがさしてくる。まあこうしたことがあります。これが神の光なんです。もし私のこの本を読んでいて、胸がサァーッと暖かくなってきたり、あるいは涙がこみ上げてきたり、頬に赤みがさしてきたりしたら、これは神の光が射してきたんです。本当に体全体が暖かくなるんです。 ところがこれが、たとえば心が間違っていて、地獄霊なんかに支配されていると、本当に体が寒いし、冷たいし、いつも何か調子が悪いです。体が重いです。だるい感じがします。こういうふうに体がけだるくて、重くて、だるく、苦しいと、やっぱりユートピアつくろうと思っても、そう簡単にできないですね。いつも体が重い。いつも苦しい。いつも愚痴がでる。こういう状況では、なかなかユートピアはできないね。やはり、体が温かくて、そして軽くて、そして元気でにこやかで、すこやかだったら、やっぱり他人に対しても笑顔を振りまけるし、いいこともできると思う。だから、こういう個人としてのこの体調、および心の調子の管理、これが非常に大事です。 そうすると、結局どういうふうにすればいいかというと、いつも神の光が射すような状態、状況、これであれば、非常にこの世の中は楽だっていうことです。楽に住めるんです。私はそう思います。楽に住めるんですよ。実に楽ですね。いつも神の光が燦さんと射しているような状況だったら、ニコニコ、ニコニコしていけるんですね。 どういうふうにすれば、じゃあ神の光が射してくるかというと、心にひっかかりをつくらないことです。このひっかかりのことを執着とも言います。心が執着で苦しんでいると、光が射さなくなるんです。曇りをつくっていきます。だから、心に執着をつくらない。ひっかかりをつくらない。これが大事です。 じゃあどうしたら、ひっかかりをつくらないかというと、結局、一日のうちで、心に去来するものを見ていて、いつも一定のところに行っていないか、お金だとか、食べ物だとか、地位、名誉、人の言葉、愛情の不足、こんなことにいつも心が止まってないかどうか考えてほしいんです。だから、そうしたものに止まってるとしたら、それを取り除くことが大事です。正当にそれを評価し、考え、検討して、徹底的に反省したのなら、もう振り返らないで、サラッと流していく。そして、春の小川のように、五月の風のように、爽やかな気持でいつも生きることです。くよくよしないことです。 昨日は昨日でわずらえばいいじゃないか。昨日わずらったことを、今日またわずらわなければいけない理由はないでしょう。昨日の晩、いやな電話がかかっても、今日もそのことについて悩まなければいけない理由はない。昨日いやな電話があったら、それをサラッと忘れて、今日また出直していく。そうじゃないかな。それを根に持って、一年、二年思ったところで何の得もないし、心に苦しみかがあるだけだ。サラサラといつも流していく。そして、透明感のある人生を生きていく。これが大事だと、僕は思うんだね。 だから、透明感溢れる毎日を生きていると、神の光が燦さんと射してくるのです。そしてそれが、ひとつの幸福の原動力になる。そして、ユートピア建設の力にもなっていく。そうに違いない。僕はそういうふうに思います。だから、ユートピアの原動力は結局、透明感溢(あふ)れる生活、そして、神の光がいつも射してくる、飾らないで、そして誰から見られても恥ずかしくないような、そうした天真爛漫(てんしんらんまん)な、天使のような生き方をすることです。それが大事ですよ。いいかな。